バッハ:無伴奏ソナタとパルティータの解説
1976年:FM東京(TDK-OC010収録)
Last Updated
:
2003/05/13
Administrator:
Binwa
(1)無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータについて
「私はこのように思うのです。バッハはきっと、優れたヴァイオリニストに違いない。憶測だけでこのように思うのはいけないことかもしれません。しかし、次にお送りするような、無伴奏のソナタとパルティータをみると、そう思えてならないのです。
無伴奏のソナタとパルティータは、ヴァイオリニストのバイブル、いや、むしろ、音楽家にとっての聖典と言っていいでしょう。この曲が、なぜ、今日、こんなにも愛され、生き生きと感じられるのでしょうか。それは、この曲が音楽の偉大な構築物であるからです。素晴らしい情熱、ポリフォニックな複雑さと難解さ。それら全てのものを融合するからなのです。
これらの曲に要求されるテクニックは、全く驚異的なものです。左手では、指を伸ばして和音をつかみ、また、3つないし4つの音を一度に弾いて同時に響かせること。そのほか、数々の高度なテクニックが要求されています。
しかし、ここで注意しなくてはならないことは、このソナタとパルティータをバッハが作曲した時代には、あのパガニーニが生まれていなかったということです。ヴァイオリンのテクニックを最高度に発展させ、その可能性を究めたと言われるパガニーニは、まだいなかったのです。そんな時代に、悪魔のような難しい和音、ダブルストップを長く伸ばしたり、3つ4つの音を1度に弾いて長く保持したり するテクニックを要求するのは勇気のいることだったでしょう。これはつまり、バッハの要求が大変高度なものだったということなのです。私が始めに、バッハはきっと優れたヴァイオリニストだったと言ったのは、こういった理由からなのです。
バッハ演奏に要するテクニックは、大変ユニークなものなので、特別のトレーニングが要ります。左手の位置は、ギターを弾くときのそれによく似せることが必要です。ギターを弾くときには、左手をずっと内側に入れていなければなりません。そうしないと、触れてはいけない弦に触れてしまうでしょう。ヴァイオリニストがバッハの無伴奏を演奏するときには、それと同じようにすることが必要です。」
(2)人間としてのバッハについて
「バッハについて、私が考えていることを、ここで少しお話ししたいと思います。始めに、人間としてのバッハについてお話ししましょう。バッハは、誇り高く、同時に慎ましい人柄を兼ね備えていました。自分の尊さをよく知り、また人間の尊さをよく知っていました。彼は力のある人間に対して屈服することは決してありませんでした。彼は非常に信心深い人でしたから、彼の全ては天に捧げられたのでした。彼が一生の間訪れた各地方の支配者に対してでは決してありませんでした。
私は個人的には、バッハは音楽の創造者だと感じています。もちろんバッハは史上最初の作曲家ではありませんし、彼の先達となるべき人がたくさんいたことはもちろんです。バッハは当然、先輩ブックステフーレからも学んだことでしょうし、またヴィヴァルディやパレストリーナからも多くを学んだでしょう。けれども私は、バッハがいかにインテリジェンスで鋭い人であったかに、驚かずにはいられません。バッハが生きていた頃には、ラジオもテレビもなかったことを思い起こしてご覧なさい。そんな時代に、バッハは何でも知っていたのです。伝統や習慣、音楽をいかに作るかということから、ポーランド、フランス、イギリス、イタリー、デンマーク、スペイン、ポルトガルなどの国々を知っていたのです。これは驚くべきことです。
たとえば、バッハのハープシコードとヴァイオリンのためのソナタを例にとってみましょう。その第一楽章を聴いてみると、彼が古い時代のポルトガルやスペインの音楽のやり方、とりわけ、古い時代のポルトガルのハープシコード奏者のやり方、音楽の作り方によく通じていたことに気がつきます。また、ほかの作品、たとえば、ポロネーズなども、いわゆるポロネーズのやり方をよく心得ています。フランス組曲はまさにフランス的でありますし、イギリス組曲にしても、これ以上イギリス的にすることはできないでしょう。イタリア協奏曲などにおいても、それは、彼の天才から生まれていることはもちろんですが、意識的にせよ、無意識的にせよ、イタリアの影響はとても大きいのです。ですからバッハは、決して心の狭いナショナリストではなく、ユニバーサルな人間だったのでした。今日ではバッハは、偉大なヨーロッパ人と言われています。それは彼自身が音楽を通じて、色々な国を知っていたからでもあります。
バッハの芸術、感覚、人間的な感覚は、完成度の高い建築や、数学・科学の感じにたとえられましょう。バッハの書いた作品の各声部をひとつひとつ丹念にたどってみれば、それがどうやって出会い、交わり、再び出会っているか。それがどんなにうまくできていることでしょう。バッハはまさに、偉大な科学者でした。そして同時に、この対位法やポリフォニックなテクニックが決してそれだけに終わるのではなく、美しさや感情をまとめることと完全に一体になっているのです。
オーバーな表現かもしれませんが、仮に全ての音楽が不幸な事態に直面し、これまでに書かれた全ての音楽が破壊され失われたとしても、もし、バッハの作品だけが残っていれば、私たちは再びそこからスタートして、全てを再びやり直すことができるでしょう。」
(3)バッハ解釈について
「ところで、バッハの作品を解釈するとき、私は、決して極端に走らないようにしていることを申し上げたいのです。今日では、ヴァイオリンの弦の糸は200年前より太くなっていますし、コンサートホールもずっと大きいものになっています。また、録音とかレコードの点から、マイクロフォンからの技術的な要求も多くなっています。
しかし、また、私は、バッハを次のように演奏することだけは避けたいと思っています。つまり、音符に忠実に演奏することは当然としても、これをまるで百科事典のように演奏すること。これは絶対にしてはならないことです。それはバッハの天才に対して、正しく奉仕することにはなりません。
なぜなら、百科事典のようなものは、知識とインフォメーションのもとにはなっても、生きて動いてはいないのです。バッハの音楽は、本当に生きて、息づいて、躍動しているものなのです。だからバッハの原典に対しては、その尊重と、これら色々の事柄が調和のとれた結婚をしていなくてはなりません。これは本当に大切なことです。テキストは絶対に尊重しなくてはなりません。しかし同時に、バッハの時代の生活や習慣や意味を正しく見出し、それに近づくことも必要です。
テキストの完全度と解釈する人々との個性とが、ほどよく調和のとれた結婚をしていなくてはなりません。この調和のとれた結婚という意味は、この二つの個性、バッハと演奏者とがぶつかり合うということではありません。演奏者はバッハの前にまず頭を下げるべきです。バッハの作ったものの美しさと偉大さとに演奏者の個性が加わること、と言えば良いでしょうか。
バッハの作品は、全てを持っている完全な建築物であり、また彼の作品は、その全てが本当の意味で、この世における創造物だといえるでしょう。」
『バッハ:ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』(TDK-OC010)の日本語吹き替えから引用しました。
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