ヘンリック・シェリングは1918年11月22日、ポーランドの首都ワルシャワにうまれた。やがて50才になろうとする彼は、シゲッティ、ハイフェッツ、フランチェスカッティ、オイストラッフのつぎの世代を形成するメニューイン、スターン、グルミォー、コーガンたちとならんで、現代のヴァイオリニストの第一線にあるひとりである。
シェリングは7才のときにポーランドの生んだ大ヴァイオリニスト、フーベルマンに才能を認められた。そして、ベルリンでカール・フレッシュとウイリ・ヘスのふたりの名手の教えをうける。ヘスはヨアヒムとともにヴァイオリン教師としては最高のひとであった。その後、シェリングはパリ音楽院で、ガブリエル・ブイヨンの指導をうけるが、この間彼の才能をたかく買って多くの助言を与えたばかりでなく彼の楽壇活動に積極的な後楯となてくれたのがフランコ=ベルギー派の巨匠ジャック・ティボーであった。シェリングがはじめてレコードにいれた大曲ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(仏オデオン)がティボーの指揮で録音されている。このレコードは日本への演奏旅行の途上航空事故で亡くなったティボー(1953年9月)の最後の録音であったことでも記念すべきものとなっているが、若い頃のシェリングがいかにその師に恵まれ、彼等から大きな期待をかけられていたかを示してもいる。
シェリングのスタイルにはフレッシュの端正な古典的様式美と、ティボーの高雅な揉軟性、そしてフランコ=ベルギー派の伝統ともいうべき感覚的な音色感が適切なバランスをもって保たれている。彼自身すぐれた音楽性と教養の持主であることはいうまでもないが、このような恵まれた師を得、その影響を自分自身のものに身につけてシェリングの芸術が育てあげられたことを認めなければなるまい。
ポーランドうまれの芸術家の大部分がそうであったように、シェリングもまた第2次大戦によって彼の運命とその後の進路を大きく左右された。戦時中にシェリングはフランスからアメリカに渡り、メキシコも訪れた。そして、1946年にメキシコの市民権を得、1948年からはメキシコ市の国立音楽院教授をつとめるようになった。彼はいまでもいっている。“メキシコは私の心の故郷であり愛する祖国である”と。
メキシコにおいて後進の指導に当るとともに、彼のヨーロッパ、アメリカにおける演奏活動もひじょうに幅のひろいものとなった。大ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインに懇望されてジョイント・リサイタルをひらき、ヴァイオリン奏鳴曲の録音をしたのをはじめ、協奏曲の大曲も相ついで録音するようになる。1964年来、彼ははじめてほじめて訪日演奏旅行を行い、日本の聴衆にもっとも親しまれ感銘を与えたヴァイオリニストのひとりとなった。そして、1967年秋、2度目の来日が決定している。
シェリングのレコーディング・キャリアは1950年代のはじめにさかのぼるが、彼の名声を決定的にしたのは、前記の師ティボーの指揮によるベートーヴェンの協奏曲と、それにつぐバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの全曲録音(仏オデオン)であった。後者は1955年度のACC(アカデミー・シャルル・クロス)のディスク大賞を与えられた。(以下略)
岡俊雄「ヘンリック・シェリングの人と芸術」(AB-8021)を引用しました。引用の際、明白な誤記(1箇所)を訂正しました。