吉田秀和「シェリングとヴァルヒャ」
   (『吉田秀和全集13音楽家のこと』より)
Last Updated: 2003/10/26
Administrator: Binwa


シェリングとヴァルヒャ

 「このレコードで協演しているヴァイオリニストのシェリングと、オルガニストでチェンバリストのヴァルヒャのことを、それぞれの楽器で現代最高のバッハ奏者と呼ぶ人が少なくない。これは日本でも、ひろく知られていることである。私は、そういう呼び方を好まない。しかし、そういう私もこの2人が、現代でのバッハの演奏様式の1つを最高の形で代表している存在だということには異存がない。

 このレコードにきく2人の演奏は、実に、厳しい。ヴァイオリンとチェンバロ独奏のためのソナタという種目が、すでにバッハの大きな独創的な創造精神から生まれた、非常に高い、そうして大きな未来をもった音楽の形だったわけだが、しかしこれはまた宗教的精神的な内容をもったものであるよりも、世俗的社交的な集まりで楽しまれるべき性格の音楽だったのだから、ここにみるようなアプローチだけが唯一のものかどうかという問題は、当然、きく人の頭に浮かぶはずである。しかし、この2人は、この音楽を、舞踏の精神から生まれた「組曲」やパルティータの類と切りはなして、教会トリオに由来する、精神の内心に向かって凝集された、高くて厳しいものとしてとらえているように、私にはきこえる。

 といって、バッハの音楽はこうひかなくてはならないとか何とか前もって歴史的な知識とか先入観とかで武装された態度があるといっているのではない。むしろここに提出された演奏は、はじめの音から最後の音にいたるまで、完全に、純粋に、音楽的な性格のものである。それが、2人の演奏の大家によって、よけいな飾りも装いもなしに、そのものずばりの形で、簡潔に、直截に、ひかれてるのである。

 シェリングは、かつて、「バッハは自分の神だ」といったそうだが、その神は新約聖書や、まして旧約聖書にあらわれてくる神というよりむしろ、純粋に古典的な均整節度をもった、濁りのない、清澄な精神の芸術を生みだした神としてのバッハということなのだろう。だが、そういう節度と秩序の精神は、とかくアカデミックで硬直した、貧血症的なバッハの演奏を導きやすい。私たちは、そういう例をたくさん知っている。しかし、シェリングの演奏のすばらしさは、古典的節度と生気にあふれる音楽性とが全然矛盾せず、おたがい排斥しないところにある。

 私は、数年前ベルリンで、彼がベルリン・フィルハーモニーといっしょにアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲をひくのをきいたことがあるが、そのときにこのことに気がついた。シェリングという人は、作品の精神的な純度が高ければ高いほど、品位にみちた、しかも熱烈な演奏に向かってつき進む力をもった名手なのである。つけ加えるまでもないかもしれないが、そういう大家は、ことにヴァイオリニストの場合、世界を通じてもごく少ししかいない。

 ヴァルヒャも、私は同じように、ベルリンのフィルハーモニーのホールで、彼がオルガンの独奏会を催したときにきいた。この盲目の巨匠にも、シェリングとまったく同じように、内に向かって燃えるような精神の集中があると同じくらい、外的な効果への剛直な嫌悪があるように見受けられる。それに、この人は、彼の扱う楽器の性格からいっても、作品の構造的な側面により敏感なわけだが、そのくせ、ダイナミックの細かな陰影づけとか音色の絢爛とした変化を使用して音楽の形をあらわしてゆこうとする道を、好まないように思われた。

 こういう2人が、それもほかならぬバッハの名作を対象に合奏した場合、このレコードできかれるように厳しいものにならないはずはない。しかし、それがこの場合のように、部分的でなくずっと持続して達成されているというのは、レコードでは本当にまれなことではないだろうか? 私にわかった限りでは、この演奏には、何か独特のなまなましさというか、弾みのついた強さというか、そういったものが、大部分を通じて流れている。その理由は、録音するとき、この2人は、1曲ごと、1楽章ごとにずっと通して演奏し、やり直しの必要があるときにも、よくあるように、局部的な訂正やつぎはぎをしないで、改めてまたその楽章を初めから終わりまでひき直したからではないだろうか。私は録音や吹込みの技術的実際的な点には無知な人間だが、これをきいていると、そういう気がしてならないのである。

 この合奏は、はじめを少しきいただけでも、強拍に充分にアクセントをおき、急がず、遅れず、むやみと音をふくらましもせず、逆に痛切な抒情性も狙ったりもせず、いつもピンと高く強く張った音楽の糸を堂々と紡いでゆくこの2人の姿に、端正で剛健な精神を感ぜずにはいられない。

 そういうなかで、たとえば第4番ソナタの第1楽章の「シチリアーノ」やアダージョ楽章からは詩的な香りが匂ってきたり、あるいは第5番ソナタの第1楽章ラールゴには一面に蒼古雄勁な雅致がみなぎっている。私は、多くの人びとの意見とは逆に、こういうまったく虚飾を脱ぎ捨てた強い演奏こそ18世紀は知らぬこと、19世紀には求めがたく、現代の大家たちにいたってはじめてできるようになった1つの「バッハ演奏の様式」であろうと考えているのだけれども・・・・・・。」

 

吉田秀和『吉田秀和全集13音楽家のこと』(白水社)488〜490頁を引用しました。
引用に際して、漢数字を英数字に直しました(例、二人→2人)。

 


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