宮沢明子『ピアニストの自画像』より
Last Updated: 2003/08/15
Administrator: Binwa


♪シェリングを“ふる”

 「ジュネーヴ国際音楽コンクールを受けたころ、わたし、ヘンリック・シェリングのバッハの無伴奏のレコード、なけなしのお金をはたいて買って、何百回も聞いてるの。この人に会ってみたいと思っていた。憧れの人だったの。

 それに、すごいミステリーな人なの。結婚していない。だけども、50近い、すでに。それから、メキシコ国籍だけれども、言葉は13カ国語でき、いろんな女の人を連れ歩いてるって。でも、なんだか知らないけど、おばあさんと一緒に住んでる。それが、おばあさんなのか、奥さんなのか、わからないとか、ストーリーがものすごくある人。

 ジュネーブ国際音楽コンクールの楽屋で、初めて会ったら、世にもジェントルマンなのよ。一見ね。

 それで、『あなたは優勝だ』と言うから、『とんでもない。親指が痛いし、たぶん駄目だと思う』って言ったの。『いや、素晴らしい。マイコ』っておっしゃったの。その言葉に狂っちゃって、それから、『マイコ・ミヤザワ』にしちゃったの、向こうの芸名を。

 それで、とにかく、『何かお好きなものはありますか。プレゼントします』って言われた時に、『ステーキ』って言った人も珍しいと言われたけど、後で。普通、お花とかって言うんじゃないですか。

 わたし、お腹、すいていたんですよね、もう。お金がないから、ステーキ・ハウスに行けないしね。『ビフテキが食べたい』と言ったら、『厚い、おいしいステーキ・ディナーをご馳走しましょう』って、ほんとに翌日、呼ばれました。

 その時に、わたしはシェリングと1対1で食べられると思ったのが、この自惚れのバカなんですよ。

 それで、一世一代の香水を買って、オー・ド・トワレですけどね。よせばいいのに、真っ赤なフェルトみたいなミニスカートなんかはいて。脚だけは自信があったものですから。で、マスカラなんぞも、しっかりつけて。5分ぐらいかけて、目、パチパチにして、パチガンちゃんをやっていったんですよ。ええ、この自惚れのバカめ。

 そしたらですね、『ボンジュール』って、女性が出てきたんです。シェリングの娘だと思った。そしたら、『わたしはアイラというトルコのヴァイオリニストです』って。『ヘンリックと今、泊まっているんだけど、あなたがいらっしゃるというので、わたしもヘンリックと一緒に、今日、お食事をします。今、彼、ちょっと髭を剃ってるから、すぐに来ます』って。

 『髭を剃ってる』って言ったから、ああ、この女の人とシェリングは、と思ったわけ。お前、私の男をとるなってことよ。

 コンクールで落ちた人たちにも、マイコのところにシェリングが来て、2人でディナーなんて宣伝しちゃったんで、みんなからの質問を20ぐらい抱えて行ったのに・・・・・・。

 もう、わたし、ふてくされちゃって、ジュネーブのホテル・デ・ラ・ペーっていうとこの、1番高いステーキのディナーを食べたあと、石ころという石ころ、全部、つま先でけとばして、そのあと、裸足でナイロンの靴下、かかとのところを穴だらけにして、最後には泣いて帰った。

 食事の間、その女の子が言いましたね。『ヘンリックは明日発つから、これからいつ会えるかわからないの』って。

 それから、わたし、時々、あのヴァイオリニストの名前を聞きますけど、あのステーキ屋の女かと思いますよ。

 日本に来なくて嬉しいです。日本に来たら、わたし、ほんとに悪いけど、平手打ちに行くつもりです。

 すごく傷ついたのよ。ジュネーブ国際コンクールの賞金、なんに使ったと思います? あの賞金はあとで送られてきますから、借金したの、下宿のおばさんに。賞状を出してね、そのおばさんに、『溜ってた下宿代をまず差し引け』って言われた。

 『シェリングに会うの』って言ったら、『え? あのシェリングに?』って言うから、『そうなの』って言ったら、『じゃ、あなた、今日は帰ってこないだろう』っていうの、おばさんは泊まってくると思ったの。

 賞金を担保に借金して、下宿代を払って、洋服を買って、それからオー・ド・トワレを買って、マスカラは5本、買った。それで、差し引きパーになっちゃった。すごく傷ついて、シェリングのレコード、蹴飛ばしたんですよ、うちに帰って。

 それから、わたしはスカウトされて、ベルギーのアントワープのマダム・トルコフスキーの家に下宿するようになりました。

 そしたら、電話がかかってきたんです。マダム・トルコフスキーは『男なんてとんでもない。男はみんな狼よ。わたしが会ってからマイコに会わせる』って電話に出たら、『シェリングです』って言ったので、彼女、おろおろしちゃったわけ。『シェリングだから、あんた、電話に出なさい』って言うの。『マダム、品定めしてないけど、いいの?』って言ったら、『いい。あの人は清潔な素晴らしい人です』って言うの。

 で、『はい』って、すごく冷たく出たら、『今、リエージュにいる。今夜、演奏会だけど来るかい?』って。

 リエージュってアントワープから汽車で1時間半から2時間の所。それで、わたし、『じゃ、マダム・トルコフスキーと共に参ります』って言ったの。その時、彼は1人だったの。アイラっていうヴァイオリニストのかわりにわたしをという魂胆だったかも。

 今度はマスカラはつけないでね、普通の格好で行った。黒いタートルにジーパンなんかはいて、マダム・トルコフスキーを連れて行ったの。

 そしたら、シェリング、ちょっとショックというか、あまりいい顔をしなかった。それで、わたしも、『今日はとっても疲れてますから、演奏会を聞くかどうかわからない』って言っちゃった。

 そしたら、『いや、演奏を是非聞いていただきたい』って言うから、『わたし、忙しいの。ジュネーヴの国際コンクールに優勝してから、演奏会も増えたから』と言って断っちゃった。

 そしたら、あとでマダムが、『あなた、大家に対する口のきき方がずいぶん横柄だけど、新人なんだから、ああいう人に気に入られてヴァイオリン・ソナタなんか組むことを考えたら?』ときたわ。

 あのときに、シェリング様って言って、1晩泊りの用意をして行って、それでソナタをお願いしていたら、もう超売れっ子になっていたかもしれない。でもね、いいの、これで。わたしはかたきをとった。

 大家からお声がかかると、飛んで行く人の話、よくあるんですよ、この世界では。シェリングの話をしたら、『あんた、1晩? わたしなんか、着替え1週間分、持って行く』って言ったピアニストがいた。『バカね、あんた。だから、あんた、ギャラ、まだ安いのよ』ってこの間も言われた。

 3回目の電話は、わたしが東京に帰ってた1964年の12月、自宅にかかってきたもんだから、ママ、ひっくり帰っちゃった。シェリングも来日中で、『記者会見をするから、ホテルに来て下さい。マイコを大変かっていることを述べたい』って。

 母を連れて行きました。わざと遅れて一緒に会見場に行ったら、『オーッ』ってオーヴァーなジェスチュアで、『ディス・イズ・マイ・マイコ』って言ったわ。こう言われたら新聞記者ならピーンと来るでしょ。わたし、すごく頭に来たの。そして12年たってから、ちょっぴりお返しをしたのです。

 1976年に、わたしがチェコスロヴァキアで演奏旅行をしていたんです。プラハで彼が演奏することがあって、その前の日、わたしはブラチスラヴァで、ショパンのコンチェルトを弾いてたの。その時に、私の友達のウラディーミル・スピヴァコフっていうハンサムなソヴィエトの男の子もちょうど演奏会があって、プラハで弾いていたの。その彼とレストランで食事をしたの。そしたらシェリングがいるんです。で、わたしが『ハロー』って言ったら、そのすてきな男の子がスピヴァコフだから、彼、ムッとしてたわ。

 そうすると、ヴァイオリニスト同士ですからジロッと見ちゃってね。それでスピヴァコフが言ったわ、『シェリングの?』って。だから、『いいえ。たった一人、シェリングを断った女なの』って言ったのを覚えてる。わたしも意地悪になっちゃった。

 スピヴァコフとは、お互いに音楽会が終わって、割り勘のほうが安いから一緒に食べようって、ハンバーグを食べてたのよ。それだけのことです。

 それから何年かたって、わたし、シェリングさんに謝ろうと思うようになったの。お互いに結婚もしたし、わたしの夢はシェリングさんとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの全曲をやってみることだったの。その話をしようと思った。そしたら、シェリングさんが明日ベルギーに来るから、トルコフスキーさんが、『よかったら仲直りのご飯をしましょう』って。『じゃ、行きます』って言った時、お亡くなりになったの。前の日に、ドイツのカッセルという所で倒れて。」

 

吹田靖治『宮沢明子 ピアニストの自画像』( 大和書房)114〜121頁をそのまま引用しました。
引用に際して、漢数字を英数字に直しました(例、五十→50)。


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