1988年3月、ヘンリク・シェリングはドイツ演奏旅行中にカッセルで急逝したが、その時、1960年代にバッハ演奏でその名声が輝いていた彼のことを思い出した人は、ほとんどいなかった。かなり歳をとってから有名になり、、世界中にセンセーションを巻き起こした、この黒髪のポーランド出身のヴァイオリンの巨匠は、20世紀後半、メキシコ国籍のパスポートを持ち、各国を演奏旅行していた。
1960年年代といえば、ニューヨークのヴァイオリン教法の大御所イヴァン・ガラミアンのもとから、ピンカス・ズッカーマンやチョン・キョンファが華々しく登場した頃である。かつて、クライスラー、フーベルマン、エルマン、ハイフェッツといった面々が、それぞれの個性を発揮し、心から楽しんで演奏し、すばらしいヴァイオリン演奏テクニックをさまざまに競っていた頃の再現のようである。これに比べると、シェリングの演奏は、極端なまでに水の如く中性で、稀有なまでに飾り気がない。彼は、年齢を重ねるにつれて、素焼きの陶器の如く、さらにどの音にも飾りをつけずに演奏するようになってゆき、またそれに加え、完璧なまでにヴァイオリンを操りきって演奏している。
人々は、シェリングの演奏を非常に正しく評価していたといえよう。シェリングは、間違いなく20世紀後半の偉大なヴァイオリニストのひとりである。しかし、彼の活動していた時代、すでにパールマン、ズッカーマン、クレーメルたちによる、新しいヴァイオリン演奏スタイルが登場しており、シェリングは従来の奏法とこの新スタイルの波のちょうど中間世代にあたる。彼は第2次世界大戦を経験した世代で、戦後すぐにはヴァイオリン演奏活動を活発に再開しようとは、あまり思っていなかったようだ。彼の狂信的なまでに作品に忠実な態度は、高度に研ぎ澄まされた音の個性、独特の演奏スタイルのなかにみられる。戦後、時代は変わり、作曲者の意図に忠実な演奏よりも演奏者独自の解釈が優先されていた、古き良き時代ではなくなってくる。
シェリングは最初、音楽の新しい時代潮流の先駆けであった。しかし、悲劇的なことに、彼は普通の人なら躊躇してしまうほど激しく自分に酔いしれてしまう傾向があり、キャリアを積んでゆくなかで、それがあだとなって、客観的にものごとを捉える新しい流れについてゆけなくなる。
シェリングは、1918年にワルシャワの近く、フレデリック・ショパンが生まれたところからさほど離れていない、ジェラゾヴァ・ヴォラという町に、工場主である父と、ピアニストの母との間に生まれる。最初はピアノを学ぶが、7歳の時にヴァイオリンを始める。シェリングが9歳の時、あのブロニスラフ・フーベルマンが彼の演奏を聴き、この子には才能があると、彼の両親を説得。当時ヴァイオリン教授として有名だったカール・フレッシュに弟子入りさせる。そのフレッシュに3年間師事し、1933年に最初のコンサートをワルシャワ、ブカレスト、ウィーン、パリでおこなって、大成功を収める。パリでナディア・ブランジェに作曲を師事、大学で哲学と美学も学び、作曲学部を首席で卒業。この勉強期間中も、ヴァイオリンのテクニックがさびつかないように、毎日1時間は練習。大戦中は、兵舎、病院、キャンプなどで慰安コンサートを300以上おこなう。その一端としてカリブ諸国を訪れ、それが彼のラテン・アメリカとの出逢いとなる。1942年、亡命先を探していたポーランド人、ヴラディスワフ・シコルスキ将軍の通訳として、彼はメキシコを訪れる。1945年、シェリング自身もメキシコに移住し、メキシコ国籍を取得して、首都の音楽院で教授として教鞭をとることになる。この時点で、彼は一度、ソリストとしてのキャリアを事実上捨ててしまっていた。
1950年代の半ば、アルトゥール・ルービンシュタインが、メキシコへ演奏旅行をした時のこと、ある日のコンサートが終わると、熱狂的な学生ファンのひとりが楽屋に飛び込み、すばらしい演奏だとルービンシュタインの母国語であるポーランド語で賞賛する。そして、この学生は、メキシコにポーランド人ヴァイオリン教授がいるので、ぜひ彼を招いて一緒に演奏してはどうかと、ルービンシュタインに薦める。
ルービンシュタインは、そのヴァイオリン教授と一緒に演奏してみて、そのすばらしさに熱狂する。そして、指揮者シャルル・ミュンシュとピエール・モントゥーが、復帰を躊躇するシェリングを、再び国際舞台へとのぼらせたのである。1958年、ルービンシュタインとシェリングのコンビは、ベートーヴェン《スプリング・ソナタ》と《クロイツェル・ソナタ》を演奏する。そして、伝説的興行主ソル・ヒューロックが登場し、40歳になろうとしていたシェリングが、国際舞台でのキャリアを積み上げるための準備を、一手に請け負うことになる。
《スプリング・ソナタ・ヘ長調》の録音からは、今日でもなお、当時の世界的スターと無名のヴァイオリニストの摩訶不思議なコンビぶりを、十分に堪能できる。シェリングは、まるで深い眠りから目覚めたばかりのように、冒頭部のアレグロをすばらしく演奏している。それは、けっして厚ぼったくもなければ、重ったるい音色でもない。若いヴァイオリニストは矍鑠とし、年季の入った巨匠と一心同体となって、広々とした風景を思わせるベートーヴェンのソナタの曲想をうまく描き出している。そこには、すばらしい音楽の旅路が展開されているといえよう。
その2、3年後に録音されたブラームス《ト長調ソナタ》と《ニ短調ソナタ》の演奏には、明らかに変化がみられる。シェリングは一気にスターダムにのしあがると、あれほどはにかみやだったデビュー当時とはうってかわり、大柄な盛り上がる音を奏でるようになっている。彼はかなり力強いヴィブラートをかけ、ひとつひとつの音を強調しようとしている。心持ち少しだけ冷静ではなく、表面的な演奏になっている。一方でルービンシュタインは、ピアノでのリードによってヴァイオリンを制御することなどできそうもないと、はじめからみてとり、あえて制御していないようである。
シェリングは、この間にメキシコの外交旅券を政府から与えられ、メキシコの重要な「文化輸出」の担い手となっている。8ヵ国語を操り、幅広いレパートリーを持ち、さらにそれを増やし続けるシェリングのために、カルロス・チャベス、ロドルフォ・ハルフテル、ジャン・マルティノン、ローマン・ハウベンソトック=ラマティらが曲を作っている。このように、第2の故郷であるメキシコは、彼の世界的な活躍に必要な演奏のオリジナリティが生かされる作品を提供することとなる。ただし、今ここにあげた作曲家のほとんどは、フォルクローレ的要素にとらわれた作曲しかできないでいた。彼らの曲は、別な言い方をすると、スペインのマヌエル・デ・ファリャ、エンリケ・グラナドスなどを模倣した亜流的なものでしかない。
作曲家のハルフテルは1900年いドイツ人を父に持ちマドリッドで生まれ、同地で勉強した後、1939年に母国の内乱をきっかけにメキシコに渡り、たちまちのうちに最先端をゆく作曲家となる。彼が1940年に作曲した《ヴァイオリン協奏曲》は、明らかに多重音階の影響を強く受けている。ハルフテルは、もともとはイーゴリ・ストラヴィンスキーと一緒に仕事をしていたサミュエル・ドゥシュキンのために作曲するつもりだったが、1953年にシェリングのためにこれを改訂。シェリングはこの作品をメキシコの指揮者エンリケ・バティスのもと、ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団と共演する。最終楽章は明らかにスペイン風舞踏形式を取り入れた軽快なロンド。シェリングは右手の弾むボウイング・テクニックに精通し、パーフェクトにアコードを奏で、輝くような音色で演奏。熟練したテクニックの持ち主であるシェリングは、彼なりにこの曲をこれ以上掘り下げられないほど深く研究し、集中力を込めている。
シェリングの演奏テクニックの基本は、フレッシュのところで鍛えられたまじめな職人気質に裏打ちされている。彼の演奏会はいつも、技巧を凝らした古典派の曲で終わる。シェリングは、重力や厚みを感じさせない魔法を使っているかのような、奇抜なテクニックでは演奏していない。1971年に、アレクサンダー・ギブソン指揮、スコッティシュ・ナショナル管弦楽団と、再発見されたパガニーニ《ヴァイオリン協奏曲第3番》を演奏。この時のシェリングの奏でる音色は重厚で、シューマンが「芸術を表現するためのテクニックの意義は、パガニーニの登場を転換期として大きく変わった」と言ったこの分岐点の手前にあり、保守的な側にとどまった演奏になっている。シェリングが、ヴィブラートをできるだけ抑え、平坦で幅広い一音一音を維持するように演奏しようとしているのが、特に手に取るように分かる。
シェリングの芸術を通してのメッセージは、いったい何なのであろうか。彼の膨大なレパートリー、数多くの録音とコンサート記録をみると、彼が最高の水準で、古典派とロマン派の音楽を紹介していることが分かる。それらは、単に虚飾を捨てた音楽だと簡単に捨て去ることはけっしてできない、もっと重厚にして、深淵なものである。特にシェリングの演奏するバッハ《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》は、聴く人の記憶に印象深く残る。シェリング以前のヴァイオリニストではみることができなかった、驚異的に創り出される的確なアコードの取り方は、特にバッハのサラバンド、フーガの演奏において、潔癖な音として響いている。シェリングのバッハは、まさにそのオリジナルのスケールの大きさ、荘厳さを表しているといえよう。シェリングの演奏のなかには、馴れ合いや軽々しい動き、ニコラウス・アーノンクールもよく概念化して述べている「響きからの語りかけ」、また、パルティータの踊りの要素を、みつけることはできない。シェリングにとってバッハの音楽は、できる限り、崇高な意義を音に託して演奏してゆくものであった。このバッハへの姿勢は、彼が1965年に録音した《イ短調ソナタ》のフーガに、まさに現れている。
ハラルド・エッゲブレヒト著(シュヴァルツァー節子訳)『ヴァイオリンの巨匠たち』(アルファベータ))より67〜70頁を引用しました。引用に際して漢数字を英数字に直しました。人名はそのまま引用しました。