シェリングは1918年にワルシャワの、音楽好きな、裕福なユダヤ人の生産業者の家に生まれた。5歳で、母親からピアノの手ほどきを受け、2年後に、弁護士で上手なアマチュアのヴァイオリニストでもある兄から、ヴァイオリンを教わった。ヘンリックは、ヴァイオリンがピアノとくらべて、あまりにも小さな楽器であったので、好奇心をそそられた。そんな小さな楽器から出る音で、いったいどうして大きな劇場を満たすことができるのだろうと、不思議に思った。彼の進歩が著しかったので、もとペテルブルグのアウアーの弟子で、その助手もしていたモーリス・フレンケルのところに入門させてもらった。シェリングがいかにフレンケルに負うところが大きいか、そして、ヴァイオリンの別々の流派が、実際に、いかに「互いに依存し合っているか、からみ合っているか、そして密接に関連し合っているか」最近になってやっと、彼にわかり始めてきた。
10歳のヘンリックがメンデルスゾーンの協奏曲を弾くのを聞いて、フーベルマンは非常に感心し、ベルリンのフレッシュについて学ぶようにすすめた。ヘンリックはその忠告を受け入れ、3年間フレッシュのもとで学んだ。1932年、ヘンリック一家はパリに移った。ここでヘンリックは大勢の有名な詩人、画家、作曲家などと出会い、ナディア・ブランジェについて作曲を学んだ。そして、ティボーとクライスラーを初めて聞いて、フランス楽派の虜になった。クライスラーの優雅さ、上品さ、そしてヴァイオリン演奏という芸術への一般的なアプローチの仕方は、シェリングがこれまでに教わったどの師匠のものとも異なっていた。ティボーについて、彼はこういっている。「彼にはハイフェッツの技巧も、エルマンの力もない。しかし、その演奏は、特に彼の気分がよい時には・・・・・・だれにも劣らない」。この2つの影響に刺激されて、シェリングはパリの音楽院に入って、さらにある期間、勉強することにした。そして、1937年には、念願のヴァイオリンの1等賞を得て卒業し、演奏家生活を始めた。
シェリングが21歳の時に、ヒトラーがポーランドに侵入した。彼はただちにポーランド軍に参加した。彼はすでに6か国語を流暢に話せるようになっていたので、連絡将校兼通訳として、シコルスキ将軍の参謀に任命された。彼は移動中にヴァイオリンを持っていくことを許され、傷病者とその家族のために300回以上の演奏会に参加した。また捕虜収容所でも弾いた。この経験は――将軍と兵士を、オーストラリア・ニュージーランド人、チェコ人、ポーランド人、メキシコ人などを結びつける――結合力としての音楽の力を、彼の心に印象づけた。シェリングはまた、すべての種類の音楽に反応し――フォーク、ポップ、ロック、ジャズなども、クラシック音楽の中に働いているのと同じ力の一部と考えている。彼は立派なピアニストでもあり、寛ぎのためにジャズを弾く。
1942年、シェリングは亡命したポーランドの首相に同行して南米に行き、戦争で生じた4千人のポーランドの難民の住むところを探した。この家を失った人々を受け入れてくれたメキシコの温かい心に感動して、戦後彼は教えるためにメキシコに戻り、1946年にメキシコ市民になった。彼は今日ではメキシコ政府にとって公式の文化大使となっていて、主として、外交関係のない国々との間の文化交換の育成に当たっている。「なぜなら、音楽は絶対に政治よりも上にあるべきだと思っているからです。」
1954年の秋、アルトゥール・ルビンシュタインが一連のピアノリサイタルをするためにメキシコに行った。聴衆の中にいたシェリングは、ルビンシュタインの演奏の美しさに圧倒され、舞台裏に行って故郷のポーランド語で祝辞を述べた。この巨匠はポーランド語を話す「メキシコ人」に興味を持ち、次の日に会おうといった。
シェリングがルビンシュタインにヴァイオリンを聞かせると、今度はこのヴァイオリニストの芸術的技倆に、ルビンシュタインが大変に驚き、12年ぶりに演奏会のステージに復帰するようにすすめた。そして、興行主のソル・ヒューロックに紹介した。ヒューロックは早速、合衆国への演奏旅行を実現させた。初めてのヨーロッパ巡回は1956年におこなわれた。
シェリングが演奏会のステージに再び現れたのは36歳の時だった。それから30年近く経った今日、彼は世界中で演奏し、レコードを作り、極めて活発な教授活動をしている。(メキシコ大学音楽学部の弦楽科――1946年に彼が創設した――の主任をしている)シェリングのレパートリーは、すべてのクラシックの協奏曲と、メキシコの作曲者の曲を含む多くの現代曲との折衷である。1966年のエジンバラ音楽祭で、友人のカルロス・チャヴェスの協奏曲をヨーロッパで初めて演奏した。これはそのひと月前に彼が初めて弾いたものだった。
1971年10月10日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールデ、彼がアレキサンダー・ギブソンの指揮するロンドン交響楽団と、「失われた」パガニーニの第三ヴァイオリン協奏曲を、現代で初めて演奏した時には、かなりの興奮を巻き起こした。
この手書きの譜は、ナポレオン戦争の時になくなってしまったと考えられていた。それが、シェリングの活発な探索活動で、日の目を見るようになったのである。彼は長年その協奏曲を探していた。その結果、パガニーニの2人の80歳代の女性の曾孫と知り合いになった。この婦人たちはシェリングに、巨匠の作品がもっと弾けますよとほのめかし、最後に、1世紀以上も触れずにおかれた楽譜の束を見せた。シェリングは一生懸命にばらばらの紙片をまとめた――「第1楽章をそろえるために5日かかったよ!――結局、完全なコンチェルトを1つ発見したがね」。これは後に、イタリアの主導的な音楽学者によって、失われていた第3番であると認められ、折り紙を付けられた。シェリングはそれを録音し、そのレコードはロンドン初演の翌日に発売された。スタンリー・サディーは<ザ・タイムズ>紙に書いた。
息を飲む速さのスピッカートがあった。それぞれの音は真珠の粒を並べたようにそろっていた。8度、3度、6度、そして10度の重音が1つかみあった。時にそれらはトリルで挿入された。稲妻のような左手のピツィカートがあった。ハーモニスクの長いパッセージがあり、時には重音で奏された――シェリング氏はいったい何本の指を持っているのだろう? と、わたしは思い始めた・・・・・・。ハーモニスクは非常に甘く、清らかに響き、弓使いははっきりとリズミカルで、音色は明るく、銀の光沢を帯び・・・・・・。わたしとしては、フレージングにもう少し情熱がほしく、リズム的にはもう少し自由な、もっとジプシー的なスタイルの方が望ましく思われた。パガニーニは、何といっても、悪魔と手を組んでいると噂されていた音楽家だ。そして、たしかにシェリング氏は悪魔的に華麗に演じたが、やはり、天使的に清潔で純真すぎた。
この見解は、<デイリー・テレブラフ>紙に執筆したピーター・スタドレンによって支援された。「シェリング氏は演奏不可能な曲を、落ち着いたよい機嫌で弾き、少なくとも99パーセント成功したが、結局、彼が悪魔と多少なりとも手を組んでいるという感じは払い去ってしまった」。この清潔感は――バッハにおいては不可欠な要素だが、パガニーニにはまったく向いていないのかもしれない。シェリングのバッハのソロ・ソナタとパルティータの解釈は、レコードでは最上の1つと考えている人が多い。1973年のクィーン・エリザベス・ホールにおけるパルティータ第3番の演奏について、<デイリー・テレグラフ>紙の批評家は、こう書いた。「“前奏曲”は逆らうことのできない潮の流れのように、フレーズからフレーズに続いていきながら、ほとんど催眠術的な動きを展開した。そして、残りの楽章全体を通じて、バッハの押え切れないような旋律的(メロディック)なインヴェンションが、容易に、力強く、流れた」
シェリングは作曲家の全生涯を、性格も環境も含めて、――歴史的事件もそれに一役を演じているが――完全に知ることが大切だと考えている。そしていつも、作曲家を取り巻いている一般的な雰囲気と、自分自身を一体化させることができた後には、その人の作品を解釈するのが容易になると感じている。
シェリングはコンサートや大使としての移動の間に、多くの国々の音楽的条件を調査する機会を持った。そして、イスラエル国は、ヴァイオリン演奏という芸術への著しい貢献にもかかわらず、ストラディヴァリのヴァイオリンを1丁も所有していないという事実を知って、ひどく驚いた。そこでシェリングは1972年12月に、イスラエル建国25周年祝賀コンサートの時に、この名工の1734年製の逸品「ヘラクレス」を贈って、この異常事態を改善した。このヴァイオリンは元イザイの所有していたものだが、ペテルブルグで、あるコンサートの後に盗まれ、1925年にパリの店頭にふたたび現われ、それをシャルル・ミュンシュ夫人が夫のために購入したものであった。
シェリングはこれを「キノール・ダヴィド」つまり「ダビデの竪琴」と改名した。
マーガレット・キャンベル著(岡部宏之訳)『名ヴァイオリニストたち』(東京創元社)より315〜319頁を引用しました。引用に際して漢数字を英数字に直しました。人名はそのまま引用しました。